オリジナルストーリー

硝子の記念日(仮)

ある晩、食卓に並んだカレーの隣に、妻が静かに置いたのは一枚の離婚届だった。
「理由は言えない。でも決めたの」
20年連れ添った妻の冷たい声に、政男はただ呆然とした。


翌朝も彼女は何事もなかったように朝食を並べる。
ふっくらと焼かれた鮭、丁寧に出汁をとった味噌汁。
昨日の会話など存在しなかったかのように、妻は淡々と動いていた。
だが政男の胸には、離婚届の薄緑が刺さったままだった。


手帳を開くと、赤丸で囲まれた日付――結婚記念日の温泉旅行。
「最後の思い出に行こう」
そう切り出すと、妻はしばし黙り、やがて小さくうなずいた。






結婚記念日の温泉旅行


旅館に着くと、20年前の新婚旅行と同じ部屋、同じ料理。
笑い合いながらも、互いに「これが最後かもしれない」という影を抱えていた。


夜、布団に並んで横になると、妻が天井を見つめたままつぶやいた。
「最後の旅行なのに……笑えないね」


「……ごめんね。政男君の優しさ、ちゃんとわかってる。でも、もう戻れないの」
その声は震えていた。


「一緒にいると苦しくなるの。嬉しいのに、苦しいの。だから……終わりにしなきゃって」


政男はたまらず問いかけた。
「……本当にそれだけか?俺に言えないことがあるんじゃないのか?」


妻は唇を噛み、必死に涙をこらえていた。
やがて、震える声で真実を吐き出した。


「……両親が詐欺に遭ったの。六千万。保証人になっていたから、返済義務は私にあるのよ」
「だから離婚して、あなたと真弓だけは守りたかったの」


政男は絶句した。六千万――現実感のない数字に頭が真っ白になる。
だがそれ以上に、ずっと一人で抱えてきた妻の苦しみを思うと、胸が締め付けられた。


「……何勝手に全部背負おうとしてるんだ。そんなの、一緒に背負えばいいだろ」


妻の肩が震え、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう……政男君。私、もう一度隣にいていいの?」
その夜、二人は涙と共にもう一度夫婦に戻った。






妻の覚悟と社会復帰


温泉から戻ったある晩、妻は真剣な表情で切り出した。
「……私も働く。あなたに全部任せるわけにはいかない」


専業主婦として二十年過ごしてきた彼女にとって、それは簡単な決断ではなかった。
料理や洗濯の合間に求人誌を開き、履歴書を書き、何度も書き直しては丸める。
夜中、政男が寝静まった後も机に向かい続け、「今さら社会に戻って、私に何ができるのかしら」と独り言をつぶやいた。


面接に行く朝、クローゼットの奥からスーツを取り出した。
肩パッドの古さにため息をつきながらも、震える指でボタンを留め、背筋を伸ばした。
鏡に映るのは、二十年分の歳月を背負った女。だがその瞳には、かすかな炎が宿っていた。


「受かったわ。不動産会社よ。……昔、あなたと同じ業界で働いてた頃を思い出した」
その声は疲れていたが、どこか誇らしげだった。






職場での孤独な戦い


初出勤の日、彼女は事務所の冷たい視線にさらされた。
「専業主婦が通用するわけない」「顔だけはまだ悪くないけどな」
陰口は容赦なかった。


それでも妻は黙々と仕事をこなした。契約図面の修正、顧客への電話、膨大な資料整理。
誰もが面倒がる雑務を引き受け、夜遅くまで残って取り組んだ。


やがて最初の契約を一人で取り切った日、上司が「よくやったな」と声をかけた瞬間、妻の目に強い光が宿った。


帰宅した彼女は玄関で靴を脱ぎながら、ふっと笑った。
「疲れた……でも、楽しい。久しぶりに“社会の中の私”に戻れた気がする」


その言葉を聞いた政男は、胸が熱くなるのを感じた。
――この女はやっぱり強い。そう思った。




違和感


妻は働き始めてから、確かに輝きを取り戻していた。
だが同時に、政男の胸には小さな違和感が積もっていった。


夜、ベランダに出てスマホを耳に当てる姿。
「今日は社長に同行だから」と言い残して、帰宅は深夜。
食卓に並んでも、笑顔がどこか上の空で、視線は遠くをさまよっていた。


問いただそうとするたび、政男は言葉を飲み込んだ。
――壊れるのが怖かった。
ようやく繋ぎとめた日常を、自分の手で崩したくなかった。


そしてある夜、残業を終えて帰宅した政男を迎えたのは、暗いリビングの沈黙だった。
テーブルの上に、一枚の紙が置かれている。
蛍光灯の下で、薄緑の色が冷たく浮かび上がる。


政男の手が震えた。
喉がかすれ、声にならない息が漏れる。


――あの日と同じ光景。
最初の離婚届と寸分違わぬ姿で、そこに置かれていた。






戦い


政男は迷わず裁判に踏み切った。
不貞は明白だった。
妻と社長に慰謝料の支払いが命じられ、津守社長も連帯して責任を負うことになった。
続いて離婚裁判。
親権は政男の手に渡り、判決が響いた法廷は重苦しい沈黙に包まれた。


その時すでに、妻の実家の借金は津守社長によって返済されていた。
だが判決により、二人は二度と近づけなくなった。
結果、関係はあっけなく破局した。






再興


数か月後。帰宅した夫はポストに分厚い封書の束を見つけた。
離婚裁判の判決文、親権に関する通知書――重い現実を詰め込んだ紙の束だった。


疲れ切っていた夫は、それを無造作にテーブルへ放り投げた。
封筒がばらけ、一枚の用紙がふわりと中央に広がる。


――婚姻届。


政男の視線が釘付けになる。
「……あの時と同じだ」


その束の中に、便箋も一通、挟まれていた。
封を切れば、中には必死な言葉が連なっているのだろう。
だが読むことはせず、静かに便箋を畳んで思った。
――この女はやっぱり強い。



テーブルの上には、離婚も婚姻も、過去も未来も、すべてが重なり合っていた。
静かな夜気の中で、紙を切り裂く音が響いた。


その後、妻はひとりで暮らしを立て直しながら、何度も同じ夢を見た。
「もう一度やり直せるなら」と。
だが願いは宙に浮いたままだった。


社長は全てを失い、肩代わりした借金の重みに沈んだ。
だが皮肉にも、ゼロから新しい事業を起こそうとする執念が再び火を灯していた。


政男は、娘と暮らしながら仕事に没頭した。
休日は走り込み、夜は学び直し、少しずつ失った自信を取り戻していった。
疲れた顔の奥に、かつての光が戻りつつあった。


――離婚は終わりではなかった。
それぞれの人生の、再興の始まりだった。


・・・と、ならないのが現実。ばれたら即、地獄に落ちる。
不貞はダメよダメダメよ。
絶対ばれないようにやらなきゃダメダメよ。